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トマオナの部屋

医学を勉強しながら、日々妄想したことを書いてます。

立ち上がるコトバ

私は慣用句や比喩の類が好きだ。

小説を読んでいて露骨な直喩なんかに出会うとついゾクゾクしてしまう。上手い言い回しや小洒落た文句を見つけたときと似た感覚だ。

 慣用句なら例えば「ちょうちんに釣鐘」、これがお気に入り。いかに不釣り合いで、理屈の通らない無理をしようとしているかがひしひし伝わってくる。大仰でコミカルな感じがまた可笑しい。

比喩なら「憑き物が落ちたように」。
ある人の人柄や物腰、そんなものが前後でガラリと変化したことを端的に表している。それだけでなく一種の脱力感、第三者がいるかのような不気味な雰囲気など、言外のニュアンスも大きい。実に上手い文句だ…。

他にも「言葉を飲み込む」という比喩がある。
言いたいことがあるんだけども、それをぐっと我慢する感じが身体的な感覚として伝わってくる。

 
これらのことをちょっと煎じ詰めたとき、言葉の意味って曖昧なんだなあ、そう思った。例えば「りんご」という言葉は辞書的には「バラ科の落葉樹になる赤い果実」という不変不動のモノを表す。ところが小説や日常生活で「りんご」という言葉に出会ったとき、私たちの脳裏に浮かぶのはそういうモノではなく、もっとぼやっとして曖昧なイメージだ。固体のように形の定まったものではなく、むしろ霧の塊みたいなイメージ。そこにはあの赤い果物の映像が核としてあり、その周囲に甘酸っぱい味、爽やかな香り、家でリンゴを食べたときの記憶、以前見た絵の中のリンゴ…そういう過去の経験に裏打ちされた個々人の「りんご」に対する印象がうっすらまとわりついている。

 
全ての言葉は万人に通じるある意味をその核に抱いていて、その周りに人それぞれのイメージがぼんやり漂う。これが私の思う言葉のカタチ。(抽象的で嫌な言い方だが…)


こう考えると比喩の面白さが少し論理的に説明できるかもしれない。

何とかっていう哲学者によると「言語は思考に先行する」らしい。高校時代に習った記憶がある。私たちが生きる広い世界の中で、言葉で理解できることはほんの少しだ。(そして言葉で理解できない感覚的なことは、たとえば絵なんかを使えば理解できる可能性がある。)

「世界という海を言葉という目の粗い網ですくう」

このことをこんな風に表現しているのをどこかで見た。

 

つまり!
比喩という修辞技法は、言葉の持つ曖昧な言外のイメージを上手くパズルのように組み合わせて、本来言葉だけでは認識しづらいことを、読者が理解しやすいようなものとして実体化させる作業と言えるのではなかろうか。ある言葉とある言葉をある文脈の中で用いることでそれらが化学反応を起こし、全く新しい特別なイメージを持つモノが頭の中に立ち上がってくる。この感覚が楽しい。
(今私は比喩の面白さを比喩を使って説明しようとした!)

 
そしてこのことは、「言葉のイメージ」が個人の経験によって様々であるためにより一層深まる。「言葉のイメージ」が人によって違うということは、ある文句を見たときに受けるイメージも人によって異なることを意味する。これはある本を百人が読めば百人がみな違う読書体験をするということだ。

 私は文学が芸術の一である根拠をここに見出す。

釘や木の板を少しずつ組み合わせて家を建てるように、作家は曖昧な言葉を1つ1つ組み合わせて作品を作る。ところがその言葉は、釘や木の板と違って人によって受け取り方が異なる。しかし作品全体を俯瞰して眺めれば、それは誰にとっても整合性の取れた世界になっていなければならない。その意味で文学作品は作家が作るものでありながら、実際のところは読者の経験によって作られている部分が大きい。作家はあくまで道筋を示すだけ。それを頼りに、読者は自分の心の中で新しい世界を構築していく。作家の仕事は、読者が自分なりの世界を最後まで作り上げられるようにアシスタントすることだ。

 
この『言葉で伝えられない何かを示唆する』ことが「ただのモノ」が「芸術」に進化する条件の1つであると私は考えている。特に、文学というものは言葉で伝えられないものを言葉を使って伝えようとする点で逆説的であり、特別だ。だから思うに、上手い文章、特に上手い小説を書くにはとっても高い技術が必要になる。



何か伝えたいことがあって、そのためにこういうキャラクターがこういう状況でこんなことをする話を書こうという具体的な構想を、仮にAさんが持っていたとする。そしてその構想がノーベル賞並みの超優秀なものだったとする。しかし、もしAさんがその物語を映画のように鮮明に頭の中で再生し、その1シーン1シーンをまるでデッサンするみたいに緻密に原稿用紙上に再現しようとしたならば、完成した作品がAさんの脳内にあった頃ほどの精彩を放つことはないだろう。そこには比喩の感覚が欠けているからだ。ちょうど写真を写真に撮れば画質が悪くなるように、そこにあるものだけを言葉で説明した景色は、人から人に伝わる過程で劣化していく。言葉はそれほど雄弁ではない。言葉のイメージが持つ魔力のようなものを巧みに利用し、読者の想像力をかき立てる努力を惜しめば、小説の出る幕は無い。それなら映画や演劇を作れば事足りてしまう、そう思う。

「しょうもない」の呼び声

 私は時々、何の前触れもなく突然もの凄ーくしょうもないことがしたくなる。そういう癖のような、病気のようなものがある。

具体的にどんなことをするのかと言うと、これが記憶にない。多分、しょうもなさすぎて脳ミソがすぐ忘れてしまうからだろう・・・。

だが、それでも2回だけは覚えていたので、当時のことを振り返ってみた。字面だけ見るとただのバカであるが、恥を忍んで告白する。私のしたことは次の2つだ。

①高校の柔道の授業で使った白帯をペンキで黒く染める。
YouTubeにアップされているボーカロイドの楽曲を上から順に聞いていく。

まず①について。もし柔道をやっている人がいたら本当にごめんなさい!これはしょうもないことというより、手の込んだイタズラである。
それで「これで黒帯持ちだぜ、ヒッヒッヒ」と笑っていた。発作が起こるとこういうことが楽しくてしようがなくなる。

②は、別にボーカロイドがしょうもないというわけではない。だが、わざわざ説明せずともこの行為のくだらなさ、安っぽい感じは何となく理解できよう。そういうことを恥も忘れてやりたくなる。これもこの発作の症状だ。

そしてつい先日、またこの発作が起きた。忘れぬうちにそれをここに記録しておく。

③スイッチを押せばランプが点く装置をデザインした。その写真がこちら。

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スイッチを押すと・・・。

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ピカーッ!

なんじゃこりゃーっ!
自分でもそう思う。だが、そういうどう考えても何の役にも立たないことをするのが楽しいのだ。

ただ、今のところこの感覚に共感してくれる人は私の近くにいない。それが少し寂しいところ。

世紀の必殺技「かめはめ波」

ドラゴンボールのネーミングが好き。

言わずと知れたことなのでここでくどくど語るのは控えるが、例えばトランクスとか、ヤムチャとか、ブロリーとか、超サイヤ人3とか。

感覚的なことで上手く言葉に出来ないけれど、どれも何だか愛嬌がある名前だ。

そんな中で私の一番好きな言葉はなんと言ってもやはり、『かめはめ波』。

かぁ・・・:めぇ・・・はぁ・・・めぇ・・・波ぁーっ!

ついそう口ずさみたくさせる力がある。この言葉のどこが私をそんなに惹き付けるのか、ちょっと考えてみた。

まず第一に語感が抜群と言えよう。
五音というのは和歌に見られるようにリズミカルで発音しやすい。それが言葉自体のコミカルな感じと相まって独特の雰囲気を持つ言葉になっている。

それからア行の音が1つも無い。そのお陰で一つ一つの音節に力がこもる。音節ごとに若干の間ができるからだ。そしてこれは、かめはめ波が悟空の必殺技の名前であるための重大な意味を持つ。このことを五音それぞれについて見てみる。

①両手を脇腹にぐっと引き付けてからの「かぁ」
次の瞬間、悟空の周りの空気ががらりと変わる。視聴者(読者)は
「キタキタ!」
と胸の内で叫ぶ。待ってましたとばかりに一気に物語への期待感が高まる。

②全身に力を込めての「めぇ」
できるヤツはこの時点で
「これはヤバい・・・!」
そう言って悟空から距離を取ろうとするだろう。雑魚なら
「一体何だ・・・?」
そう言って首を傾ける。悟空が体に力を入れるように視聴者(読者)の体にも力が入る。

③ひりひりするほどの緊張感とともに「はぁ」
一見この「はぁ」が最も不必要な音に思える。いわばただの間だ。しかしこの間こそ、かめはめ波の真髄である。ここで視聴者の期待感、悟空の体に込められたパワー、敵の抱く恐怖、場の緊張が一気に加速的増大を見せる。そのためにこの第三音は体に力を込めるにあたり最もスタンダードな「はぁ~!」が充てられるわけだ。「はぁ」は「はぁ」であるべくして「はぁ」なのだ。

④爆発寸前の「めぇ」
ここに至り、今までの全ての蓄積がピークに達する。破裂寸前まで高まった緊張。そしてこの「めぇ」が、さあ今からかめはめ波を繰り出すぞという最後の合図になる。

⑤怒濤の「波ぁーーーっ!!」
これまでの均衡が破れる。押さえ付けられていたモノが、目の前のものをことごとく灰にする破壊光線の形を取って1度に解放される・・・。

こんなものをまともに食らって無事でいられる自信がある人間がいようか。つまり、かめはめ波はそのネーミングからして圧倒的なのだ。ここにかめはめ波が悟空の必殺技たる根拠があると私は考える。

似たことが元気玉についても言えそうだ。

補足すると、アニメに関して今まで言及した全てのことは、悟空の声優が野沢雅子であってこそだと思う。野沢さんでない悟空など考えられない。

目覚めよ、腹の虫

 私は小食だ。胃袋が小さい。
さらに食事を疎ましがるきらいがある。お腹がすけば良いのだが、間食したり食事の時間が安定してなかったりするせいか、空腹にならないこともしばしば。お腹はすいてないけど、時間が来たから仕方なく食べる感じ。それで、なおのこと食事がおっくうになる。

できることなら錠剤を飲むか、点滴を打つか、あるいは鉄腕アトムみたいにお腹をカパッと開けてご飯をガバッと流し込むことができれば、カンタンで良いのにな、なんて思っている。

かと言って食事が嫌いというわけではない。美味しいものを食べるのは好きだし、友達と食事するのは楽しい。ただ、そうでないときはほんのちょっぴり、食事が面倒になることもある、ということ。

残念ながら、これはあまり自慢できることではないようだ。世間の多くの人はたくさん食べるということを美徳とする。

『ほい、もっと食べや』
祖父は私と食事するとき、よくこう言っていた。それで私は祖父を喜ばせようと、ちょっと無理をしてご飯を流し込む。

そう言えば少し前、テレビでこれに関してビックリするようなことを言っている人がいた。街を歩く人に声をかけて、『あなたはどんな人を信頼することができないか?』と聞いていく。その中で1人、4,50代のお父さんがこう答えていた。

『あー、飯いっぱい食わん奴やな。うん、飯山盛り食う奴はな、信頼できるんや』

・・・どんな理屈だよ!
それを見て思った。それなら私の信頼度なんて間違いなく0だ。これは辛い。

小食でもいいじゃん、と思う。大食漢も小食家も同じじゃないか。たくさん食べるのは良くて少ししか食べないのは悪いなんておかしい。赤ちゃんじゃあるまいし。

そうは言っても、実のところ、先のおじさんの言うことが理解できないわけでもない。特に私のような痩せっぽちの人間はもっとしっかり食べなきゃとつくづく思う。

お腹がすかないからとて
「フッフッフッ・・・私は食事をしなくとも生きていける肉体なのだ!」
などと言っている場合ではないのだ。ダイエットしようという人は羨ましいなんてお世辞を言うかもしれないけれど、私はもっと大きく、鉄のように強い胃袋が欲しい。なかなか実現の厳しい願いではあるが。

腹の虫、目覚めてくれないかなあ・・・。

ピカソとの出会い

 私はアートが好き。

絵の具の「絵」の字も知らないド素人ではあるけれど、分からないながら美術館に行ってみたり、個展に行ってみたり、そうして意味もなく「はーっ」とか「ほーっ」とかよくため息を吐いている。

今日、そんな風に美術に興味を持つきっかけになった出来事を発作的に思い出した。多分中学入学当初のころだったと思う。それがズバリ、ピカソとの出会いだった。

といっても、ピカソの作品に心を打たれたとかそういう話ではない。というのも、当時の私にとってピカソの絵(特にかの有名な『ゲルニカ』に関して)はこの宇宙で最も理解できないものの一つだった。

例えば、古代ローマの遺跡から出てきた土器とか服飾品に高い価値が付くのは理解できたし、イチローのサインボールがうん十万するのも理解できた。ところが、この『ゲルニカ』に文字通りプライスレスな価値が与えられていることだけは、どう考えても意味不明だった。中学生の頃、私はこの画家の存在を生まれて初めてしっかりと認識して呆然としたのを今でも覚えている。

『あんな落書きを!
まるで神様でも拝むみたいに世間みんながありがたがって眺めているとは、これ如何!?』

当時の私の気持ちを代弁するとこんな感じ。

『ちょっとちょっとどうなってんの・・・一体全体その絵に何があるって言うんだ・・・誰か教えてくれー!』

明らかに私の知らない何かがそこにはあった。
みんなは分かっているのに私だけが知らない何かが、そこには、あるはず・・・それも、モノすっごい価値のある何かが・・・!

今思えば、私はその正体を知りたかったんじやないかなあと思う。一種の好奇心に裏打ちされたゾクゾクする感情。それが全ての始まりだったのかも、なんてそんなことを今日考えた。

ちなみに、今もってその正体は分かっていないけれど、それについてはまたいつかの機会に