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トマオナの部屋

医学を勉強しながら、日々妄想したことを書いてます。

アンパンマンの美学

私はアンパンマンが大好き。

ちなみに私はEテレも好きだ。さすがに『おかあさんといっしょ』とか『天才テレビ君』とかは見ないけど『シャキーン』とか『おじゃる丸』は見る。
(この違い分かる人いないだろうな……)
それから絵本も好きで本屋に行ったらよく読むし、カレーはいつも甘口だし、あれもしかして私って幼児趣味が抜けてないんじゃね……?っていう話はまた今度記事にすることにして、今日はそのアンパンマンについて書く。

というのも、アンパンマンは私の理想のヒーローなのだ。

いや、これは冗談でなく、アンパンマンがかっこいいと本気で思っている。あいつはやる。その理由を少し説明したい。

そのためにはまず、アンパンマンが圧倒的に孤独であることについて言及せねばならない。「アンパンマンは孤独」と聞けば多くの人は「えっ?」と思うだろう。確かに彼は人気者だ。誰からも好かれ、愛されている。しかし、注意深く観察すれば、そこに何か決定的なモノが欠けていることに気付く。
例えばそれは「アンパンマンには生活感がない」といった形で表れている。物語中の彼を思い出してみる。彼は物語で何をしていたか。彼がすることはいつも一つしかない。


徹頭徹尾、正義を実行する。


それだけ。彼はそれ以外何もしない。まずよもやま話すらしない。

ジャムおじさん「今日は○○さんが来て美味しい
        ○○をご馳走してくれるよ」
アンパンマン 「楽しみですね~」

これは『それいけ!アンパンマン』のテンプレだ。彼の口調は穏やかだが、言葉はまるで事務連絡のよう。彼は言われたことにいつも最小限の言葉だけで返答する。当然冗談なんて言わない。

アンパンマン 「じゃあ、それまでパトロールに行
        ってきますね」
ジャムおじさん「気を付けるんだよ」

まずジャムおじさんに対して敬語で話す。自分の父親に対して敬語で話しているのだ。かと言って仲が悪いわけではなく、二人の間には強い信頼がある。常に程よい微妙な距離感を保っている。これは他のキャラクターについても当てはまる。例えばカバオ君とか、その辺りの街の人がバイキンマンに襲われている場面。例のごとくアンパンチでバイキンマンを吹っ飛ばす。

アンパンマン「大丈夫かい?」
カバオ   「ありがとう!アンパンマン!」
―カバオ走って退場。アンパンマンはそれを笑顔で見送る。

アンパンマンはみんなに慕われているけど、街の人とアンパンマンの関係はあくまで「一般人と警察」の枠の内に留まっているような気がする。一歩踏み込んだ関係がない。これは他のヒーローたちも然り。例えば、カレーパンマンとか、丼ぶりマントリオとか、かつぶしマンとか。いつもなんやかんやした挙句、助け合ってバイキンマンを撃退することになるのだけれど、そんなヒーローたちにさえ、アンパンマンは砕けた姿勢を見せることはない。信頼はある。けど友情はない。あくまで仕事仲間。あるいは同志や戦友。一見すれば彼はただ正義を実行するためだけの機械のようにも見える。彼は自分の感情を表に出すことがないのだ。バイキンマンに怒ったり、街の人を心配することはあるけれど、自我を出すことはない。自我を出す相手がまずいない。信頼できる人、慕ってくれる人は山のようにいるくせに、友達は一人もいない。その意味で、アンパンマンは孤独だ。

こう聞くとアンパンマンは所謂「凄い真面目な人」のように見える。毎日同じ時間に家を出て、同じ時間に帰って来て、文句を言わない代わりに冗談も言わず、妻が心配になるくらいの真面目人……みたいな。

しかし、アンパンマンの場合はこれとも少し違うと私は考えている。そのカギとなるのが、かの有名な『アンパンマンのマーチ』だ。そこにこんな一節がある。


―そうだ!恐れないでみんなのために。
 愛と勇気だけが友だちさ。


そう。もとよりここにはっきりと宣言しているのだ。自分の友達は愛と勇気だけであると。


―今を生きることで熱い心燃える。
 だから君は行くんだ微笑んで。


彼は孤独だ。しかし同時に、彼はそんなものにはびくともしない圧倒的な愛を持っている。そしてそれを臆せず実行する勇気がある。彼は全ての人を愛している。それが故に、全ての人に対し同じ微笑みを向けるのだと思う。それが時にバイキンマンであってもだ。


―そうだ!嬉しいんだ生きる喜び。
 たとえ胸の傷が痛んでも。


彼は決してロボットではない。心を持った一人の人間だ。孤独も感じる。葛藤もする。苦痛もある。それでも弱音を吐かない。絶対的な愛の前に迷いはない。見返りを求めないからだ。他人の愛を期待した愛ではなく、自分から発信するだけの一方的な愛。アンパンマンは、そういう愛に支えられた鋼の心を持っているんだと私は思っている。宮沢賢治の『雨ニモマケズ』と似た精神だろうか。


雨にも負けず風にも負けず

(中略)

欲は無く決して怒らずいつも静かに笑っている。

(中略)

東に病気の子供あれば行って看病してやり
西に疲れた母あれば行ってその稲の朿を負い
南に死にそうな人あれば行って怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろと言い

(中略)

みんなにでくのぼうと呼ばれ
(ちなみに少し脱線するがアンパンマンは劇場版なんかでマスコット的なキャラクターに、変な顔ー、とかよく言われている)

褒められもせず苦にもされず
そういうものに私はなりたい。


なんて堂々たる姿だろう。
自分が相手を好いている、それがあらゆる行動の根底にある。だから自信が持てる。たとえ孤独でも、誹謗中傷されても、へこたれない。

『あの花』を見て

今日の記事は特別ゆるゆるです。

GWに『あの日見た花の名を僕たちはまだ知らない』ってアニメを見ました。今更だけど。

前々から見たい見たいとは思ってたけど、なかなか機会がなくて。

遂に積年の夢を叶えたぜ☆って感じ。

なかなか面白かった。見て良かった。
まずオープニングとエンディングが良かった。『エウレカセブン』なみ。これは点数高め。

パパッと見れて、綺麗に終わってくれて、何だか気持ちいい。

ただ1つ残念なことがあって、確かに良い話ではあったけれど泣けなかった。涙腺崩壊必至って聞いてたから、さぞ感動するんだろうと思って期待していた。涙腺を崩壊させて欲しかった。エシディシくらい思い切って泣きたかった。

その点で拍子抜けというか、ちょっともやもやしてしまった。感情が爆発し損ねて、不発弾みたいになって胸の内に残った感じ?

話がちょっとあざと過ぎたんだと思う。泣かせようというのが露骨すぎた。それで作品から一歩距離を置いてしまった。

あるいは今から泣こうっていうのに、登場人物の方がわーわー泣いて騒ぐから、ちょっと気後れしてしまったのかもしれない。

でも、思えば私は昔からなかなか泣けない性格だった。『ワンピース』でエースが死んでも、『西の魔女が死んだ』を読んでも、タイタニック号が沈んだときも泣かなかった。感動はしたけど。

「あ、感動シーンがもうすぐ来そう……」

こう物語を先読みしてしまう。そういう匂いみたいなものを嗅ぎつけてしまう。そうなるともう涙は出ない。

それが証拠に、予想だにしない場所で感動シーンが来ると、私は弱い。アニメドラゴンボールZ第九話「ゴメンねロボットさん」(アニメオリジナル)はかなり泣いたし、『コードギアス R2』でロロが死んだときも結構じーんとした。どっちも感動シーンがいきなり来る。

私が神経質だからだろうか。

少し話が変わるが、私は他人がいると眠れなくなる。だから合宿とか修学旅行の夜は嫌でも夜更かしすることになる。皆が寝静まった後もなかなか寝付けない。隣で誰かが寝てると思うと何だかリラックスできない。

授業中も然り。眠い授業でも隣の席のやつが爆睡してたりすると、逆に目が冴える。でも、友だちにこれを話すと「周りが寝てると自分も眠たくなる」って言うからこれは私だけなのかしら……。

でも直感的には同じ。

いったん自分の呼吸を意識すると自然に呼吸できなくなるみたいに、眠りを意識すると眠れなくなる。

同じように、泣きそうって思うと素直に泣けない。

意識と無意識の間にあるこの関係が不思議だ。

言葉にならない

この前inochi学生フォーラムの先輩、石崎さん(仮)と話したときのこと。


(inochi学生フォーラムについては過去の記事
大阪万博ー若者100の提言書ー』↓↓を参照)
http://n-toma707.hatenablog.com/entry/2017/05/07/112405


そんなこと言われても困るんだよな~みたいなことがあった。

「高校生のときフォーラムに参加した経験にインスピされて小説を1つ書いたんですよ、あの頃」

話の流れで私の方からこう切り出した。私は時々趣味で小説を書いたりするのだが、それが良い話のネタになると思ったのである。

「おおー」

すると予想通り良い反応が返ってきた。ちなみに意識高いフォーラムの幹部ということでこの石崎という人も当然、超意識高い。ここでの意識高いっていうのは嫌味じゃなくて、起業する人系の意識の高さである。イノベーティブというか。

「どんな話?」

石崎さんが聞いてきた。もっともな質問。

「近未来の医療体制を描いた小説なんですけどね。医療3.0って言葉があるじゃないですか、その次の医療4.0なるものを自分なりに想像してですね―」

意識の高い石崎さんに合わせて意識の高い答えをぶつけてやった。

「へえ~、面白いね。その未来の医療4.0はどんな社会なの?」

「えーと……医療の主体が医師から市民に完全に移った社会でうんたらこうたら」

ここまでは良かった。大体予想通りの流れだった。しかし問題は次の石崎さんの言葉だった。

「なるほど。で、君はその社会がユートピアなのかディストピアなのか、どっちだと思ってるの?」

「えー、ディストピアの方ですかね……」

どちらかと言えばそうだと思ったからそう言った。けど100パーセントではない。というかもともとはどちらとも思ってない。「現代社会は縄文時代と比べて良くなったか、悪くなったか」と聞かれているのと感覚的には同じだった。いきなりそんなん言われても知らんし、今は今だし、昔は昔だし、まあどっちの意見もあるんだろうけど……みたいな。

ただその小説を書いてるとき、私自身はその社会をある種不気味な世界として胸の内に思い描いていたから、心象的にはネガティブなイメージが強くて、そう答えた。しかしこれがまずかった。

「どういう点でディストピアなの?」

「いやまあ……システムの介入で人が人であるための何かを失ってどうたらこうたら」

「それが不幸なん?」

「いや、えーと、幸せの総量を数値で表すことができたら、それはきっと大きくなってるとは思うんですけど……ただそれは未来の人間の話であって今の価値観ではうんぬん」

「本当の豊かさは何なんだろうみたいな?」

「うーん、何と言ったらいいのか」

大体こんな感じの話をした。絶妙に話が噛み合ってない感じを私は上手く表現できただろうか。ともかく話が噛み合わないのだ。

私が言いたいのは曖昧で抽象的で感情的な話。でも石崎さんの言葉は具体的で現実的で建設的。なんか話してて思考回路が決定的に違うと思った。まさしく、「そういうこと言われても困るんだよな~」って感じ。

その一端が自分にあることは認める。この程度の会話の中で相手の質問に上手く答えられなかったということは、つまり自分の考えた話の構成が甘かったということに違いない。でも今その話は端っこの方に置いておく。

ただ、楽しいこととか、面白いことって、その本質のところはときに説明付けを嫌うことがあるなと思った。

文庫版『ジョジョの奇妙な冒険』第四部の最終巻で荒木飛呂彦が後書きで「描いている自分にしか分からない楽しみがある」みたいなことを言っていた。
……共感できる気がする。言葉にならない、ときには誰にも伝わらない、そういうところに大切なことが隠れている。そんなことは往々にしてある。

言葉にするとありふれて退屈な文句だけど、この言葉に心から賛同してくれるような人は、最近ほとんどいないような気がする。

大阪万博ー若者100の提言書ー

えー、このをブログを始めて早くも2ヶ月近くが経とうとしています。改めて自分の書いたものを読み直して思ったのですが、何というか……こてこてですねー、書いてることが。と言うわけで、今回はちょっとだけ趣きを変えた記事を書こうと思います。


テーマは大阪万博大阪万博と言っても大阪万博そのものではなくて、大阪万博誘致の為に行われた学生団体の活動について。その名も

「2025大阪万博誘致 若者100の提言書」

これを始めたのはinochi学生フォーラムって言う大阪大学京都大学の学生、有志の高校生から成る団体で、私は数年前これに高校生として関わった。いわゆる超意識高い系の学生団体。これは誇張ではない。

以前、そういう縁あってこの団体の幹部の方(幹部っていうと大仰に聞こえるけど、見た目は普通の大学生)と話す機会があって、そのときにこの企画について色々と聞いてきた。どういう企画かと言うと簡単に言えば、「もし大阪で万博をするなら、そこで一体何をするのか、学生の視点でこういうことをやって欲しいっていうアイデアを100個まとめてみました」というもの。

その100個のアイデアを私も読んだ。

100個もあるから中には「何じゃこりゃ?」っていうアイデアもあったけど、面白いアイデアもたくさんあった。その面白い方をいくつかピックアップしてみる。

1.EXPO HUMAN HEALTHCARE BANK
来場者全てに最先端のIoTデバイスウェアラブル端末を手渡し、膨大なバイタルデータを蓄積する試み。
……ところで、こういう意識高い系の場所って往々にしてカタカナばっかりな気がする。ここでの意識高い系っていうのはつまり、スティーブジョブズがいそうな系ってこと。
(これ通じるか!?)

2.献セル
献血ならぬ献セル。来場者から細胞を任意提供してもらい、それをiPS細胞にしてストック。日本の医療インフラに役立てる。

3.最‐SAI‐
オリンピック選手の運動能力、例えば人類最強の100m走、人類最高難度の体操競技をパワードスーツを着ることで体験する。

4.夢洲牧場
万博内の牧場で鶏、豚、牛などを飼育。学生を中心とする青年が屠殺を体験。屠殺された動物は万博食堂で振舞われる。

5.ぬくもりホッとライン
ホログラムで遠く離れた人の姿、声、匂い、温もりをまるでそこにいるかのように感じる。

6.Steps For Energy
来場者の足踏みで発電。これは現在ラスベガスで導入が計画されている技術で、理論上約2兆w発電できるらしい。

7.ALL FLAT
会場内から階段を一切なくし、全てフラット構造にする。

8.Transvision
障害を抱えた人、寝たきりの人、人混みが怖くて近付けない人にHMDを付けて万博を楽しんでもらう。またそういう人に合わせた参加方法を作り出していく。


以上、8つのめぼしい企画でした。
この企画、実は結構ウケていて梅田のグランフロントで松井知事がこの企画書を受け取るセレモニーが開かれたりしている。大阪府が掲げる万博のテーマは「人類の健康・長寿への挑戦」なのだが、このテーマはいまいち若者や新興国の人にワクワクする感じがない!と万博検討会の委員から批判があり、若者の意見には需要があったのだ。一方、inochi学生フォーラムの方は、例えば大阪大学には2016年にオートファジーでノーベル賞を取ったような世界一の免疫研究機関があり、京都大学にはiPS研究所があり…というように関西には優れた研究機関がたくさんあるにも関わらずそれらのつながりが弱い、認知度が低いという現状を憂いて、関西という研究ブランドを世界に発信すべく大阪万博の誘致を応援し始めたということ。ニーズとニーズが上手く噛み合っている。


参考
http://www.aed.omron.co.jp/wecan/event/201702/item/teigen.pdf

とまと星人

私はとまとが大好きだ。
熱狂しているわけではないが、とまとへの愛情はなかなかのものだ。愛していると言っていい。


私はとまとを愛している。


こういう話をしていたとき、ある人が私に聞いてきた。
「トマトの何が好きなの?食べるの?見るの?」
私は咄嗟に
「食べる方」と答えた。

私はそのときまで自分が一体とまとの何が好きなのか考えたことがなかった。確かに私はトマトが大好物だ。
「好きな食べ物は?」と聞かれたら
「プチトマト!」と自信を持って答える程度には好きだ。

しかし、それは核心ではない。

いや、確かに私のとまと愛の源流は食べることにある。幼稚園に通っていた頃から私はプチトマトが大好物だった。あの頃はお皿の端、料理のすみっこにプチトマトが2,3個転がっているだけで大喜びしていた。っていうか今でも大喜びする。

しかし、それではプチトマトが好きというだけで私のとまと愛を説明したことにはならない。実際、私は普通のトマトとなるとそんなに好きじゃない。トマトとプチトマトの間には越えられない壁がある。トマト、あの握りこぶしくらいのトマトにそのままかぶりつくならまだイケる。しかし、一度一口大にスライスされてしまうともう駄目だ。モスバーガーに挟まっているようなペラペラの形も駄目。あれは私の好きなとまとではない。嫌いじゃないけど、あれではただの酸味のある赤い野菜。たかが脇役。所詮引き立て役。

ケチャップにもなろうものなら……ケチャップ!
あれは一体何だ?私の好きなとまとからすればあんなものは文字通り「赤の他人」だ。

このように私はトマトが大好物なことに間違いはないが、それはあくまで限定的なもの。

では、私はとまとの何が好きなのか。とまとの何が私を惹き付けるのか。

なぜ私はいつも鞄にトマトのキーホルダーを付けて出歩くのか。なぜ私はトマトのガチャガチャ(一回200円でリアルなトマトのキーホルダーが出てくる)を性懲りもなく10回も回したのか。なぜ私のPCのロック解除キーにはtomaの四文字が入っているのか(ちなみにこのブログ『トマオナの部屋』のトマは当然トマトのトマ)。なぜモンハンの自分の名前がとまと(ちなみにアイルーの名前はプチトマト)なのか。なぜ「トマト星人」っていうキモかわいいキャラクター(下図参照)をデザインしたのか……。

あるとき、これは一種のコレクター気質なんじゃないかと考えたことがある。切手を集めたり、ご当地キティちゃんを収集したりするように、私はトマトを集めたがっている。確かにそれは間違いない。でもコレクターと言うほど熱心でもないし、そもそもトマトを集めたいわけじゃない。とまと愛の核心はここにもなかった。

じゃあ一体何なのか。私は考えた。答えはずっと見つからなかったのだが、つい昨日、とうとうその答えを見つけた。私は気づいたのだ。そうか、

私はとまとの「心象」を愛していたのだ、と。

そう、心象。それは私がこのブログで何度か書いた「言葉の持つ言外のイメージ」を一言で言い換えたもの。いわばとまとの存在自体。

物心付く前から好きだったトマト。
あるときは「好きな食べ物は?」と尋ねられ「プチトマト」と答えた。
あるときはトマトのガチャガチャを見つけ何となくお金を投入した。
あるときはトマトをモチーフにしたキャラをデザインした。

始めは単なる好きな食べ物の一つだったのに、成長し、大人になり、色んな形のトマトと向き合っていく中で、私の心の中のトマトの心象はいつしか重層的に深まり、豊かになり、トマトの存在そのものが自分のお気に入りになっていた。その結果としてのとまと。

それが、私の好きな「とまと」の正体。

こういうことって結構ある気がする。

(この記事では食物としてのトマトをカタカナで、心象としてのとまとはひらがなで記しました。)

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↑「トマト星人」
元は私が高校生だったときに描いた机の落書き。

ロマンの夜明け

 西洋絵画の精神運動というか、風潮みたいなものにロマンチシズム、理想主義というものがある。これの(私にとっての)代表者と言えば、ドラクロワとかルーベンスだ。↓たとえば代表作はこれ。
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登場人物はみんな露出がきつくて、男性はムッキムキ、女性は超グラマラス。構図はダイナミックで劇的。宗教をテーマにしたものなら大抵神々しくて視点は下から見上げる感じ。ばりばり現実を誇張する。

一方でその正反対のものとしてリアリズムとか現実主義とか写実主義というものがある。厳密には写実主義が現実主義の一部だとかどうだとからしいけれど、ここでは深く考えないことにする。現実主義の代表と言えばこれ。
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理想主義と違って構図はありきたりで普通(に見える)。登場人物もヨボヨボだったり、ガリガリだったり。薄汚れてて薄暗くて、モノによっては積極的に醜い物をを表現しようとすらする。

 で、このリアリズムはロマンチシズムの反動として誕生したらしい。元々ロマンチシズムが主流だったが「これじゃいかん!」とか言う人が出て来て、その人がリアリズムを開発した…っていうイメージ。

先日はこれについて考えていた。それで以下のことを発見した。

理想主義の対義語は現実主義。しかしこと芸術に関してはそうとは言い切れない!

どういうことかと言うとこれは簡単なことで、つまり、現実主義者はロマンチストじゃないのかっていうことである。なんか、言葉の芸術的な意味と慣用的な意味を混交しているようで分かりにくいが。

要するに私は、あんな普通で何の変哲も無い日常の風景を、ここまで美しく描ける現実(写実)主義者こそロマンチストそのものではないかと思うのだ。現実主義者と言うとどうしても冷めていてニヒルなイメージがある。もちろん作品に依る部分も大きいだろうが、実際はむしろ逆のように私には思える。

例えば宗教をモチーフにした絵画の場合、ロマンチストは現実を誇張して、その絵の迫力で神の偉大さみたいなものを表現する。大抵、後光がぱぁーっと差している。これは言い方を変えれば「ほら、神様はこんなに凄いんだぞ!」と相手をある意味脅しつけることで説得しようとしていると言えまいか。その意味で理想主義者の神は暴力的だ。

しかし、現実主義者はそのやり方に反発した。ある画家がその絵の中で表現したい何かしらの美学は、ただ現実をオーバーに誇張さえしていれば表現できるものとは限らない。

 単に青い鳥的な、「本当の幸せは実は近くにあるんだ」的なことだけを発見したから現実のありのままを描こうとする写実主義が生まれたわけではない。以前ここで『立ち上がるコトバ』という文章を書いた。そのテーマは「言葉だけで表現しきれないビミョーなニュアンス」だったのだが、それを今度はいかにしてキャンバスの上で表現するか?ということ。ただ誇張する以外にもやり方は沢山あるはず。これが理想主義から現実主義への転換において芸術家が最も大きく変わった点だと思っている。これを契機に美学だったりロマンだったりをどんな風に表現するかという芸術家たちの試行錯誤が始まり、印象主義とか超現実主義とかが生まれ、現在のモダンアートに至る…んじゃね!?

なんて、結構壮大なことを考えた。

蜘蛛の糸

 高校時代の記憶の中に1つ奇妙な思い出がある。

それは何てことない日常の1シーンだ。
なのに、一体どういうわけか強烈に頭に焼き付いていてずっと忘れられない。

今朝もそのときことをぼんやり思い出していた。


~回想シーン~

それは私が北本(仮)という友人と学校から家に帰る道を連れ立って歩いていたときのこと。いきなり彼は「うっ」と唸ると両手を顔の前でパッパッと振り始めた。顔に付いた虫を振り払うような仕草だ。びっくりして「どうした!?」と尋ねると「いや、顔にクモの巣がかかって・・・」と相変わらず手をふりふり言う。

この返答に私は驚いた。というのも、そこは顔にクモの巣がかかるような場所ではなかったからだ。道路は広いし、1車線だがすぐ横を車がブンブン走っている。顔の位置に巣を張れるような電柱とか、看板(?)の類も近くにはない。それにそこは私を含めた600人以上の高校生が毎日行き来する通学路のド真ん中だ。普通に考えて顔にクモの巣っていうのはあり得ない。

「ここでクモの巣っていうのはあり得ないでしょ」

「いや、おんねんで、そういうの…この前テレビでやってた。わざと人通りの多いところに巣を構えるクモがおんねん…そうそう、俺ずっと不思議に思ってて、みんなは分かってくれないんやけど、俺たまにこういう風に顔にクモの巣かかることがあって、これ何なんやろなーって思ってたら、そのクモのことがテレビでやってて。あーこれのことかーって」

「…はぁ~」

~回想終わり~


もし第三者の誰かがこれを読んだら、イマイチ釈然としないというか、何とも煮え切らないというか、ともかく歯切れの悪い印象を受けるかもしれない。私自身、回想の中で「…はぁ~」と言っているときには何とも煮え切らない表情をしていた記憶がある。心の底では納得していないけれど、ムキになって言い返すこともできない、そういうときの歯がゆい感じ。

謎多き彼の発言の中の“クモの巣”の正体は一体何だったのか。あれから1年以上経った今、当時を振り返って考えた。


最も単純な解釈を与えるなら、彼の気のせいだったということだろう。あるいは飛んできたホコリとか塵とかをクモの巣と思ったのかもしれない。
実はこの北本という人間は少し天然なところがあって、こっちがえっ!?と思うようなことを突然ぽろっとこぼすことが稀にある。(私はそんなところも含めて彼が大好きだ。)だから、きっと今回もそんな天然っぷりをちょこっと発揮してくれたのだろう…そう考えれば、これは別に驚くようなことでもないし、すぐ忘れてしまっても構わないようなささいな出来事だ。

でも私は彼の『みんなは分かってくれない』の言葉が妙に気になる。あの“クモの巣”を気のせいだったの一言で片付けてしまうのは、何というか、私の直感に反している気がする。
(あくまで気がするだけ)

もし、仮にあのときあの場所に本当にクモの巣があったとしたら。


1車線の道路を横切るように、つーっと透明な糸が空中に浮かんでいる。

その情景をイメージしてみる。

みんなはその糸に気付かない。しかし、北本はそれに触れて、それに気付いた。

そういうことを想像すると、私は胸の辺りがざわついて、怖いのか楽しいのかなんとも言えない気持ちになってしまう。